わたしが、知ったこと(まとめ)
1.うさぎ島は、毒ガスの島の悲しい過去
2.うさぎは、森の恵みと観光客からのエサで生きる
3.うさぎたちの暮らしは、過酷
うさぎ島の場所
新幹線の三原駅からJR呉線に乗り換え、忠海駅まで23分。
最寄りの忠海駅から、徒歩8分で乗船場のある忠海港につく。
忠海港から、乗船して15分、大久野島に到着到着。
大久野島は、周囲4.3キロ、0.7 km2。
うさぎ島の歴史と過去
この大久島は、戦争に3度も利用されてきた、悲惨な歴史の島です。
悲惨な歴史は、主に毒ガス資料館(入館料:100円、9時~16時まで)で学ぶことができます。
日本の旧陸軍の毒ガス工場のことや、そこで働く労働者のことを紹介した資料など、貴重な博物館です。
毒ガス工場で、毒ガスをつくった器具や缶、防毒面、広島大医学部の先生がまとめた、労働者の被害についての貴重な資料が展示されています。
うさぎ島のうさぎたちの本当の姿・・・
写真をみて、うさぎ島にあこがれていたわたしは、うさぎの楽園を想像していました。
ところが、ついてすぐに、うさぎたちの過酷な暮らしを、感じてしまいました。
うさぎさんと暮らしたことがないヒトたちは、うさぎがかわいいと、喜んでいる様子でした。
だけど、わたしは、うさぎたちのボロボロさ、鼻炎、ケガの様子、エンセの症状などなど、健康のことばかり、目についてしまいました。
休暇村のスタッフさんの話では、夏場は厚くて、うさぎたちは、日中は、巣穴の中にいたそうです。
9月に入り、少し涼しくなって、ようやく、屋外に出てくるようになったと、教えてくれました。
だから、わたしがみたうさぎたちは、夏の暑さで、体調を崩した直後のうさぎたちだったのでしょう。
大久野島の唯一宿泊施設である休暇村の付近には、たくさんのうさぎたちがいます。
このあたりのうさぎたちのほとんどが、鼻炎でした。
母乳を飲んでいる子ウサギも、鼻水が止まらないので、心配でした。
鼻水で、ズーズーと音を出して、苦しそうに呼吸したり、前足でしきりに鼻水をぬぐおうとする姿が、気の毒でした。
山頂に近づくにつれ、うさぎたちの数が、少なくなりました。
うさぎの人口密度が異なるためか、鼻炎のうさぎは目立ちませんでした。
山頂付近までは、あまり人間がこないのか、わたしを見つけると、おやつほしさに、勢いよく走ってくるうさぎもいました。
山頂付近で、朽ち果てたうさぎさんのご遺体を見つけてしまいました。
おつかれさま・・・と声をかけました。
もし、よかったら、わたしが、そちらに行くまで、愛うさぎと虹の橋で、一緒に遊んで待っていてほしい、と思いました。
山頂には、展望台があって、瀬戸内海を見渡せます。
山頂にいた怖がりやの子うさぎが、あまり近よりすぎずに、わたしたちを観察していました。
だけど、山頂には、カラスが多くて、子うさぎは、すぐに森の深い場所に、隠れてました。
翌日、早朝5時半ごろ、早起きして、海側のうさぎたちに会いに行きました。
遠くから、ぽつんと、ひとりでいるうさぎを見つけました。
明らかに、他のうさぎとは、違う動きをしていました。
少し近づいて、ようやく、眼振の症状だとわかりました。
近づいてきた人間から、逃げようと必死なのに、カラダの平行がとれず、グルグルと回るのです。
手だけをのばして、怖がらせないように、りんごのおやつを渡しました。
受け取って、食べては落とし、また受け取っても、少し食べて、落とします。
昼間には、いませんでした。
早朝、うさぎの脳に住む寄生虫が、まるで操縦するかのように、海に連れてきているのかもしれません。
自然は、残酷だと感じました。
長い毛のうさぎさんを見かけました。
アンダーコートが毛玉になって、さぞ、暑いだろうと思いました。
はじめて、毛玉のある、うさぎを触りました。
ジャージーウーリーのようなうさぎ、ロップ系か耳がやや垂れているうさぎ、ネザ系のブラックオタ―によく似たうさぎ、この子たちは、捨てられたのかもしれません。
ましてや、元飼われていたうさぎは、仲間外れです。
船着き場の桟橋には、前足をケガしたうさぎがいました。
骨折かもしれません。
原因は、ケンカなのか、それとも人間との間の事故なのか、わかりません。
自転車で、島を一周できるので、こちらがゆっくり走っていても、ヒヤリとすることは多かったのです。
ゆっくり走る人間たちは、おやつをくれるとわかっているのか、自転車を止めようとして、こちらに向かってきます。
自転車を見たら、逃げろっ!と、注意したくなりました。
うさぎたちの色が保護色になって、とにかく見えにくいのです。
道の真ん中に寝転がったり、道のはじっこで、落ち葉に同化しているのです。
夜、休暇村付近には、下顎腫瘍のうさぎもきます。
ヒトが多い日中には、弱りすぎたうさぎというのは、目につきませんでした。
夜は、いざこざやケンカが少なく、みんな、のんびりです。
うさぎたちの中には、支え合う友だちがいて、支え合っているうさぎたちも、いました。
だけど、やっぱり、ボロボロでした。
うさぎ島は、うさぎにとって、過酷な環境です。
過酷な中で、一生懸命に生きているんだと、思います。
うさぎ島のうさぎたちの食生活
いたるところに、水入れがありました。
水入れが空っぽになったら、「水を入れてください」と書いてありました。
近くの水道で、容器を洗って、水を入れました。
ほんとうは、ペットボトルで、おいしい水を入れたかったのですが・・・。
2日目は、台風が近づいて、雨が強く降りました。
雨が強く降ってくると、うさぎたちは、木陰や巣穴に入ります。
ときには、屋根があるところや、椅子の下、人間用に作られているあずま屋で雨をしのぎます。
雨をしのぎながら、毛づくろいをして、リラックスした表情をするのです。
ごはんは、下草、木の皮、アメリカスズカケノキの落ち葉を食べていています。
山頂付近では、たくさんの森の恵みがあって、ビワの葉や柿を食べています。
観光客は、キャベツを持ってきたり、忠海港で販売されているペレットをあげていました。
わたしのように、うさぎを亡くした方でしょうか。
健康系のペレットを持っている方がいました。
声はかけずに、遠くから、見守りました。
わたしは、愛うさぎのおやつセットと入院のときに持たせていたお気に入りのペレットを持っていきました。
だけど、すぐに、なくなりました。
まず、うさぎの数が多いのです。
そして、夏の暑さが終わって、食欲が出たようです。
たくさんのうさぎさんと触れ合って、うさぎの個性が見えてきました。
何でも食べるうさぎ、好き嫌いがあるうさぎ、ペレットが好きなうさぎ・・・。
わたしが持って行ったもので、人気があったのは、砂糖不使用で、りんごジュースで味付けしたクランベリーでした。
目が大きくなって、うんまいっ!おかわりっ!とよじ登ってくるほどです。
クランベリーは、子宮ガン予防のために、持ってきたつもりですが、毎日、忙しいうさぎたちには、心配いらなかったかもしれません。
また、毛球症予防にと、乾燥パパイヤを持っていきましたが、こちらは、好き嫌いがありました。
持ってきたものが、全部、空っぽになって、わたしのココロも荷物も軽くなって、ありがたく思いました。
今のうさぎたちは、戦争時代の子孫ではありません。
大久野島では、小学校から運んできた8匹のうさぎが増えて、700匹(2013年)になったそうです
もっと詳しい・うさぎ島の過去:明治時代
最初に利用されたのは、明治時代。
1902年です。要塞が作られて、目的は、広島の呉市を守るためのようです。
広島は、日清戦争のときから、軍の都のような存在です。大砲も22個設置されたそうです。
日露戦争時代の1904年、山頂に砲弾後や兵舎跡が作られ、今は跡地の遺跡として残っています。
島を一周するうちに、火薬庫跡、砲弾跡、貯蔵庫跡、発電所跡などが、あります。
明治時代につくられたものは、オシャレなイギリス調のレンガ作り。
第二次世界大戦の前までは、日本に、お金の余裕があったのでしょう。
もっと詳しい・うさぎ島の過去:昭和と戦争
二度目の利用は、悲惨な歴史です。1929年(昭和4年)に毒ガス工場になり、1944年まで、15年間も毒ガスを製造してきました。
国際条約で、すでに、毒ガスの使用は禁止されていました。
しかし、毒ガス工場の建設が決まり、島民は強制的に移住させられて、1933年に地図上から消されたのです。
国際条約違反なので、戦争犯罪でした。
しかし、東京裁判では、アメリカの政策で裁かれることがなかったようです。
当時は、マツタケが良く取れたようですが、毒ガス製造によって、松は、すっかり枯れてしまったようです。
島全体が有害な空気で汚染されていたのです。
だから、当時には、大気環境の被害がでています。
もっと詳しい・うさぎ島の過去:毒ガスのこと
もともとは、東京の新宿にあったのですが、関東大震災の影響、もっとたくさんの毒ガスを作るために、また秘密を守るため、事故が起こっても周りに影響が少ないために、また労働者が通勤しやすいために、この島が選ばれたと言います。
もちろん研究や実験のために、大久野島では、当時、うさぎを使った毒ガス実験がありました。
毒ガスは、イペリット、ルイサイト、くしゃみ性ガス、青酸ガス、催涙ガスで、6,616 tも作ったようです。
くしゃみ性ガスというと、簡単な毒ガスに感じるでしょうが、違います。
くしゃみ性ガスは、「ヂ・フェニールシアンアルシン」という物質で、血液中の酸素吸入機能がマヒしてしまう、肺障害を引き起こすのです。
青酸ガスは、サイクロームという農薬や殺鼠剤からの転用で、恐ろしい毒ガスを、民間人でも簡単に製造できることがわかります。
毒ガス工場の労働者は、元々、漁業や農業をしてきた人です。
もちろん、毒ガスを作るとは知らずに工場に来て、自由に退職することは、できませんでした。
学生も多く、戦後の処理などで、作業に当たった人を合わせると、7,500人もの日本人が働いたのです。
缶に青酸を詰める作業をしていた方が亡くなっています。
また、毒ガス製造をしてきた人の多くは、また皮膚に水泡ができたり、慢性気管支炎を起こして、生涯、苦しみました。
ガンの発生率が多く、後遺症に苦しむ人は、たくさんいます。
もっと詳しい・うさぎ島の過去:戦後のこと
三度目に利用されたのは、1951年の朝鮮戦争の時です。日米安保条約を理由に、アメリカ軍が弾薬置き場として利用しています。
発電所跡にある黄色の文字、【MAG2】は、火薬庫のことで、アメリカ軍が書いたものだそうです。
1947年(昭和22年)、ようやく地図上に、復活したのです。
やがて、中国大陸に運ばれた毒ガスは、戦争が終わって遺棄されました。
戦後60年も経つというのに、未だに、中国人の方が被害にあっているのです。
毒ガス資料館に、新聞の切り抜きなど、保管されています。
地域住民の願いは届かず、よくやく、日本に返還されたのが、1957年(昭和32年)です。
戦争で、住民は移住させられ、現在は、観光地化。大久野島の人口がゼロ。
宿泊施設の従業員さんは、通いや寮から、出勤するそうです。
日本人は、戦争の被害者ですが、また加害者なのです。
繰り返しですが、※現在のうさぎたちは、実験動物の子孫ではありません。
訪問日:2016年9月3日(土曜日)~9月5日(月曜日)
参考文献:
・休暇村スタッフさんの話
・大久野島毒ガス資料館
・「一人ひとりの大久野島」:行武正刀著、ドメス出版、2012年
・「観光コースでない 広島」:澤野重男ほか著、高文研、2011年
・「うさぎ島 会いに行けるしあわせ動物」:福田幸広著、日経ナショナルジオグラフィック、2015年